

最初に京セラの太陽電池パネルが売れたのは1979年。ペルーの僻地にあった、とある通信の中継局だった。南米の山奥の鬱蒼とした森の中、自ら出向いていき、その手で設置したという。その後もモンゴルやアフリカの果てに、電気を必要としている人たちがいる、その地を目指して、「世界に電気を届ける」という使命を背負って歩き続けた。
「本当に、涙ぐましいでしょ。その頃、製品を設置して電気が灯ったときの、地元の人々の喜ぶ顔を見るのはみんな心から嬉しかったと思うんですけど、ビジネスとしては、もちろんまだまだの状態でした。それでもポツポツ出荷するようになったので、よろこんで売上げを棒グラフで管理しようとしたら、月に数台ではグラフにもならないですよね(笑)」
それでも、世界中で京セラの技術を必要とし、電気を求めている人のために、製品に磨きをかけていった。行く道、フロントガラスが真っ白になるほどの砂埃に見舞われたモンゴル。この地で使われる太陽電池には、パネルを覆う砂埃が変換効率を下げてしまう、という難問があった。これを研究者たちは、パネルを構成する外枠に溝を掘り、降ってくる雨水を利用して一緒に砂埃まで流してしまうことで解決。今では国内の太陽電池にも採用されているアイデアだ。カンボジアの小学校では、日が落ちた夜でも電気が使えるように、様々な工夫が繰り返された。世界のあらゆる地域の気温、天候などの気象条件、地形や大気の澄み具合など、様々なケースを想定し、調査に調査を重ねた。どこまでも品質にこだわり、いつか訪れるだろう“クリーンエネルギーの時代”を信じて、開発を続けてきた。それがそのまま、今日の京セラの品質と実績に繋がっていることは間違いないだろう。

「今は、努力の日々にやっと日が当たった、という感じでしょうか。生産量の増減を示していた棒グラフも、一気にグラフの目盛りが足らなくなるほどに急上昇しました」
1994年、太陽光発電パネルを使用した家屋に助成金が出るという政策が国内でスタートした。1992年に行われた地球サミット後のニューサンシャイン計画にのっとったものだった。
「国の政策が追い風になって、わたしたちの事業も少しずつ好転していきました。そして1997年の京都議定書をきっかけにした世界的な環境への取り組みが、太陽光発電事業をさらに大きく飛躍させたんです。1990年以前は、年間でたったの6MW程度だった京セラの生産量が、ここから急速に増加していきました」
京セラの年間発電量は、昨年207MWまで増加。本年度1年間では300MWの大台に乗るという。市場は、環境大国といわれるドイツをはじめとした欧州で急激に膨らんだ。その後アメリカ、韓国、インドと、太陽光発電の需要は確実に伸びていく。もともと海外にしか需要がなかった京セラは、この欧州を中心としたマーケットの成長や、市場環境への対応が実に素早かった。
「でもちょっと日陰から日なたに出てきたくらいで、のぼせ上がるなんてとんでもないんです。今でこそ多結晶型の技術が世界のソーラー産業のスタンダードとなりましたけど、赤字続きだった事業なんです。もちろん事業継続の裏には、トップである稲盛の揺らぐことのない理念がありましたが、実際は長年このソーラー事業部を、社の他部門の仲間たちが頑張って支えてくれたお陰なんですね。ですから今でも他の部署の仲間には頭が上がらないですよ」

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